明暦3年(1657)の江戸大火、俗にいう<振袖火事>のあと、浅草周辺に寺院が集められ、寺町が生まれました。延命院も元浅草に移転してきた寺院の一つです。
開創は室町時代の文安元年(1444)。義歓僧都により、神田矢之倉(日本橋)に創建されました。当時は<延寿院>と称し、京都の教王護国寺(東寺)の末寺でした。
江戸時代に入り、二代将軍秀忠の命で<延命院>と改称し、『玉龍山弘憲寺延命院』と称するようになります。六代家宣の時代、宝永年間(1704~11)に大塚護持院の末寺となりました。現在の元浅草(永住町)に移転したのは明暦の大火後で、その後、旗本の水野家、大名の六郷家と菩提寺の縁を結びました。明治2年(1869)京都の総本山智積院の末寺となり、真言宗智山派に属すこととなりました。
本堂に本尊とともに安置されていた弘法大師像は、初代安本亀八の作と伝えられています。また、「水晶弁天」とよばれた弁財天は、天長5年(828)に弘法大師空海が琵琶湖内の竹生島(ちくぶじま)で二体の弁財天を彫り、一体を竹生島に、もう一体を延命院に祀ったものと言われています。しかし、関東大震災・東京大空襲の災禍により焼失し、ともに現存はしていません。
昭和五十九年、弘法大師御入定1150年御遠忌を記念して映画『空海』(東映)が制作された際、前住職・中村義英は<全真言宗青年連盟映画製作本部長>を務めました。この映画で空海を演じた北大路欣也さんのスチールパネルの裏に、太々と書かれた気魄あふれる直筆のサインが延命院に奉納されています。
また、四国八十八ヶ所霊場の写しである<御府内八十八ヶ所>第51番札所、<荒川辺八十八ヶ所>第83番札所、<奥の細道百ヶ所霊場 関東路三十三所>第3番札所となっており、日々、御朱印を求めて参拝するお遍路さんの足が途絶えません。山門を入って右には、檀信徒の寄進により「修業大師像」が建立され、お参りされる方々を見守ってくれています。